都合のいいこと
今年も残りあと2ヶ月を切りました。
あっという間に2024年も終わっていくんだろうと思いながら今年を振り返ると、やたらと「課題」を自分に与え続けた1年間だったように感じます(まだ終わっていませんが)。
片付けスクールをはじめ、講座やセミナーで予定を詰め込み、このブログも「毎週金曜日に投稿する」と決めたり(隔週の時もありますが)、毎日のトイレ掃除、朝は必ずこのルーティンで…のように様々な課題を設けてきました。
何かしら行動していないと時間を無駄にしてるような気がしたり、自分が後退してしまうように感じていたのかもしれません。
もちろん、その走り続ける感覚が心地いいかというと、まったく心地よくありませんでした。
「あれができてない」「また今日もやらなかったな」なんて考えながらベッドで寝返りを打つことも。
学びたいこと、やりたいことは山ほどあり、都合が許す限りそれに取り組んできました。
でもいつの間にか苦しくなる。苦しくなるということは、何か自分の中でズレが生じてるんですよね。
本当に楽しいことって心地よい疲れはあっても苦しくはなりませんから。
ひょっとすると、私は「やりたいこと」ではなく「自分のためにやった方がいいこと」を選択していたのかもしれません。
ただ楽しいことではなく、自分の学びや成長につながること、実りになること。
純粋にやりたくて選択していると思っていたことも「これは意味があるか?無駄がないか?良い結果をもたらすか?役に立つか?」というような判断基準を持っていたのではないかと思います。
魂の成長に繋がらない体験なんて本来何ひとつないのに「ドラマを観るなんて時間の無駄」とか「お菓子作りなんて健康面でも役に立たない」とか、無意識のうちに判断して行動を選択してたんですね。
どうしてやりたいことをやってるはずなのにオーバーワーク気味になるのかな、と振り返った時、自分がそういった判断基準を持っていることに気付かされました。
以前「自分の人生にとって不要なものを手放していく」とお話ししましたが、このような判断基準も自分の人生にとって不要なものだったのでしょう。
その気付いた時、あぁもうこれ全部手放そう。自分を許そう。
そう思いました。
今はゆっくりドラマを観たり、お菓子作りのための材料を揃えたりする時間をとりながら、心がほぐれていくのを感じています。
以前、コーチングで「あなたにとって人生とは?」とたずねられた時、これまでのストイックな価値観から眉間にシワを寄せるような厳しい言葉しか出てきませんでした。
でも自分に素直になったとき、最終的に私から出てきたのは「あらゆる経験をただ経験として肯定し、感覚をひらいて成長し続けること」という言葉でした。
ダメな経験なんて何ひとつないんですよね。
こうやって重たい価値観や判断基準をひとつひとつ手放していくことで、どんどん心が軽くなるのを感じます。
そうそう、先日新しいコーヒーポットを買ったら中にカードが入っていて、こんな事が書かれていました。
スローなコーヒーを楽しむために。
ジブンだけのために心を込めてドリップすること。
心に余裕がある時には、愛する人のぶんもドリップすること。
窓の外の雨を見ながら飲むこと。
どうしても終わらない仕事(勉強)がある時こそ、中断して飲むこと。
都合のいいことばかり考えながら飲むこと。
…and more
昔の私ならバカバカしいと思ったでしょうね。
今は「ほんとそうだよね」と思います。
特に、最後の「都合のいいことばかり考えながら…」の一文。
これはわがままでも何でもなく、幸せな人生を創造していくのに大事なことなんですね。
誰も厳しい人生なんて生きたくない。だから、まずは自分が自分に優しくなろう、そんなふうにようやく思えるようになりました。
…と、部屋の片付けの話をしようと思っていたのですが、またこんな内容になってしまいました。
ま、それもOK。
自分が望んでいることをさせてあげましょう。